決断と挑戦なくして僕の人生は語れない:自己紹介

初めまして。さとたいです。周りに影響されたからでしょうか。なんだか自分の人生を振り返りたいと思い、自己紹介風の記事でも書こうと思います。

自分が何者なのかを語る重要性をサンフランシスコに来てから感じたのも理由の一つ。

生まれてから今までの話なので、とんでもなく長い文章です。ごめんなさい。日記調に仕上げたので、暇な時にでも読んで頂ければと…。

幼稚園・小学校

埼玉で生まれずっと埼玉育ち。昔はなんだかやんちゃな少年だったみたい。なかなか友達には見せないが、今も時々テンションがおかしくなるのはその名残?

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5歳ごろからサッカーを始める。父と見知らぬ小学生にサッカーで勝負を挑んだこともある。

幼稚園の試合。

キックオフと同時に全員ボールへと一目散に集まる。

通称、団子サッカー。

でも僕は少し離れたところに立ち、こぼれてきたボールをかっさらい、一人でゴールまで運んでいく、周りと少し変わった感覚をもっていた子だったようだ。

そして、海外サッカーを見るのが大好きだった。

このころから夜中に起きてはテレビで試合を見る生活を毎週していた。

特技:夜中でもアラームが鳴る前に起きてしまう

地元のクラブチームに入った。毎日楽しさと大変さの連続だった。

地区トレセンに選ばれたり、県のクラブチーム選抜みたいなどで韓国にも行った。

何度両親に車で遠いところまで送ってもらったのだろう。

自身のクラブチームと別の環境で、レベルの高い選手たちとプレーできることは学びの連続だった。

学校生活もきちんとする真面目な子だった。学級委員や運動会の応援団長、硬筆、書初め、自由研究など、なんでもやった。

応援団長だったなんて今となっては信じられない。

「明日の授業は寝てていいから自分が納得いくものが書けるまで書きなさい」と先生に言われ、夜中に締め切り過ぎても書初めを書いてた。

恥ずかしい(‘ω’)
硬筆。
姿勢がよろしい
糸電話は100mが限界と判明

中学校

新入生代表の言葉の代表になってしまった。

新入生で一番成績優秀な人が代表になるという変な噂が流れていた。

ただ、真実は小学校の卒業生代表の言葉の候補者にもなっていたらしい。でも、 小6の担任の先生が中学の新入生代表の言葉をどうしても僕に任せたかった。

そんな感じだったと記憶している。

そして性格がひん曲がり始めたと同時に、さらっさらだった髪の毛も曲がり始めた。

前髪から曲がり始めた

でも学級委員は続けた。昔の自分を知らない人は学級委員をやっていたことに驚く。それだけ、自分は別に引っ張っていくようなタイプのリーダーではなかった。

このころからよく周りを観察し、バランスをとるようなタイプの人間だった。だから、言葉数の少ない自分が「優勝するぞ」と体育祭前日に言った言葉でみんなの雰囲気がガラッと変わったと担任の先生に言われた。

全く覚えていない。

でも、その先生の確認ミスで、走り幅飛びの県大会に出場できることが決まっていたことを直前に知らされたことは覚えている。

小学生の時の

サッカーは毎回一つ上の学年でプレーしていた。中二では先輩と関東大会にも出た。中三の自分らの代、県大会準決勝の日は中学最後の体育祭と日程が被った。

試合は結局PK戦で勝った。体育祭に行くことは誰もが諦めていたけど、親御さんたちが車を飛ばす。

先生たちも最後のリレーだけはと時間稼ぎをする。

準決勝のPK戦

間に合った。

遅れてやってきたヒーローかのように、クラス中が盛り上がった。

試合でつった両足で100mを走り、バトンをつないだ。

結果、体育祭優勝。

日に日に忘れていっている中学の思い出も、この日のことは今でも覚えている。

県大会決勝。1-4で負けた。1点は決めた。ただ、PKをバー、ミドルシュートをポストにあてた。ハットトリックしてたら人生は変わっていたかもしれない。

関東大会に行けるもう一回のチャンスの試合も負けた。この最後の試合で初めて人前で泣いたと思う。

月、水は陸上部、そのほかの日は全部クラブチームでのサッカー。秋には駅伝。そして学級委員。

全てを出し切った。

卒業式当日。最後の吹奏楽部の演奏が始まるとともに、僕は涙を流していた。

高校

高校進学の時期になった。

いろんな高校のサッカー部から話はあったみたい。ただ、正式に声をかけてきたところはなかったと思う。なぜならどういう高校に進みたいかの考えがはっきりしていたかららしい。

自分のチームから10人くらい地元の同じ高校に進学した。僕はいつまでも仲良しこよしでいるのは嫌いだった。

サッカーも勉学も妥協はしたくない。文武両道を実践しているところに進みたかった。

そして、よりレベルの高い環境に挑戦したいと同時に、より強い環境に行ったら自分はどうするのだろうと興味があった。

下から這い上がってく人を何度も見てきた一方、そうした経験をしてこなかった小中学校での生活。

上には上がいる環境で、自分はどう行動するのかわからなかったからだ。

最終的に國學院大學久我山高校に進学した。

ここは明確な教育理念を持つと同時に、数々の部活動が毎年全国大会に出場するなど、文武両道を大事にする素晴らしい高校だった。

靴下はくるぶしが隠れるように。髪は眉毛、耳にかからぬように。携帯を持ってこないように。男女別学、通学路も別、女子校舎への立ち入り禁止。

そりゃこうなりますわ

「きちんと青春」のスローガンと程遠い生活。

女子と話した記憶はない。

そんな牢獄から解放されると、サワヤン兄弟のような人がうまれるのも無理はない。

デスターシャ。

サッカー部も言わずもがな過酷な環境だった。

200人を超える部員がいる中、平日は野球部とグランドを半分にわけ、1日2から3時間の練習制限。朝練、夜間練習の禁止。限られた環境と時間の中でもがき続けた。

6時半に家を出て、4回の乗り換えを経て学校へ。

勉強とサッカーで疲れながら、夜8時半に帰宅し、勉強し寝る。

これを3年間続けた。

中央線の地獄の通勤帰宅ラッシュは二度とごめんだ。

電車内で大人と毎日フィジカルバトルをしながら英単語の勉強をしてた日々が懐かしい。

勉強はそれなりの結果を出した。

2年から優組という上のクラスに上がった。

サッカーはそうはいかない。

何度仲間に追いてかれた?何度後輩に追い抜かれた?望んだポジションで出られない。トップチームの応援に行くばかり。

そして、なんであいつが上のカテゴリーに上がるんだと文句を言う日々。

「私生活の乱れがプレーにも表れる。」

ある時、サッカー部の顧問は言った。

自分は我に返った。

そう、ここは自分が望んで選んだ環境であり、道であった。

朝の正門での挨拶から始まり、勉強。放課後は柔軟、トレーニング、ミニゲーム、片付け。細かいところまで意識をする。トップチームへの応援は人一倍声を出した。

結局、トップチームのメンバーとして全国大会に出場する夢は叶わなかった。

でも、後悔はない。

かけがえのない学びと経験、友を得ることができたからだ。

状況判断とボールコントロール。これは常に久我山サッカーで求められること。ただ、ピッチ外での状況判断こそがその人の自主性を育み、人間性を形作っていく。それが結果としてプレーにも表れる。

練習時間や勉強時間が限られているからこそ、手にした時間を有効活用するための工夫を考える。現状でできることを最大限やる。

与えられた環境の中で、努力し、挑戦し、ライバルであり、友であるチームメートと毎日切磋琢磨し合う。その中でチームとして一つの目標に向かって走り続ける。

チームワークはお互いが支え合うだけじゃ高めることはできない。個々が自立しながらも、正直な本音をお互いがぶつけ合って初めて高めることができるものだと思う。

今の自分に影響を与えた久我山での学びは数えきれない。

全国大会準決勝ロスタイムの決勝ゴール。

高2の時見た、スタンドからのあの景色。

あの瞬間ほど人生で興奮する出来事はそう訪れないだろう。

大学1年から3年

そして、高校卒業と同時に、事実上僕のサッカー人生は終わりを告げた。

大学ではかなりどん底からのスタートとなった。

大学進学する上で、特別行きたい大学があったわけではなかった。名声とか肩書とかは昔から興味のないほうだし、この教授のもとで勉強したいっとかあるわけでもなかった。

ただ、心理学と経営学に興味があった中、経営学を学んどけばどんな道に進んでも役立つだろう。

そう思い、様々な大学を受け、滑りどめとして受けたつもりが法政しか受かっていない、無様なスタートだ。

高校の友達で法政に行った人は全くいなかった。まあとりあえず友達作りたいし、サッカーはずっと好きだからということで、サッカーサークルに入った。

でも2回行っただけでやめた。高校時代との熱量の差に失望したからだ。準備は遅い。試合に対するモチベーションは低い。女子マネへのカッコつけプレー。

サークルの新入生歓迎会ではさらに失望した。未成年の飲酒。お酒の一気飲みからのトイレでリバース。男女のイチャイチャ。

昔からの真面目な学生、しかも高校は男女別学であり、校則の厳しい環境で育った人間には刺激が強すぎた。

ここに自分の居場所はない。やめよう。

公認会計士のための授業をエクストラでとってたけど、退屈で続かなかった。

授業が面白いわけでもない。大学生になっても私語で怒られる周りの学生。

つまらなすぎて毎授業どいやさんを書いていた。 書きすぎて唯一得意な絵になった。 1cm四方の鶴もいくつも折った。

大学に特別目標があってきたわけでもない。楽しみも目標も失っていった。

初めての経験だった。

それから追い打ちをかけるように嫌なことがいろいろ重なった。詳細は話したくない。結局引きこもり人間になってしまった。

学校に行きたくないという理由で初めて学校を休んだ。ただ、親に迷惑をかけたくないの一心でなんとか1週間休んだだけで済んだ。でも、

学校に行く。授業を受ける。家に帰る。その繰り返し。

他は何もしていない。

だから大学1年後半から大学2年までの1年半の記憶が全くない。

鬱。

当然ゼミ面接で話すことは何もない。第一希望、第二希望、第三希望、第四希望と全て落ちた。

ちょうどそのころ、高校のOBで社会人チームを作る話があり、誘ってくれた。それをきっかけに東南アジアでいいからプロを目指そう、サッカー関係の仕事をするために留学しようとか思ってたけど、けがでしばらくプレーできなくなった時期があった。

また神様は僕から生きる楽しみを奪うのか、と思うときもあった。でも、また全力でサッカーをプレーできる環境に入れたことは一つの救いでもあった。みなさんには大変感謝しています。

やはり自分はやりたいことがあればきっちり決断し、目標があればそれにひたむきに向かっていける人間なのだ。

そんなことを少し感じていた時だった。

ゼミは結局一番厳しいからこそ人気のなかった国際経営論のゼミに入ることにした。今思えば、法政はそんな学生ばかりの集まりだったのかとも思う。

そこでの経験は今の自分の一つの分岐点。

確かに厳しいゼミだった。学生はみな優秀だし、教授もおそらく法政で一番有名な人だと思う。

やったことは基本的にフィリップコトラーの英語文献の精読、中小企業懸賞論文研究、またOBOG会や工場見学合宿の企画を担当した。

印象的なのはやはり7か月間行ったグループ研究論文だろう。

テーマは「インバウンド需要の拡大と中小企業の発展戦略

僕たちは着物レンタル事業に焦点を当て、企業のSNS戦略について研究した。

35社ほどのSNSデータの相関分析。観光協会や企業インタビューは10回ほど。そして浅草に3日間居続け、着物を着た外国人に声をかけ、アンケートをとった。40人にはのぼる。

正解のない課題に取り組む経験は面白かった。

結局大学の論文大会で入選した。

もう一つの分岐点は夏休み、 カンボジアでのインターンとボランティア。3週間ほど滞在した。

インターン内容は「スタジアムで物品販売を行い、〇〇ドル以上売り上げる」といったミッションが課され、現地調査を行い情報収集しながらミッション達成のための戦略の立案・実行をするというものだった。

大学では長期休み期間で経験できる様々な海外経験の機会を提供していた。

サッカーチームでのインターンだからというのも選んだ理由の一つだが、カンボジアには誰も行きたがらないだろうというのも理由の一つ。

また、他のプログラムはやることが予め決められているのに対し、このインターンは自分たちで作り上げていくところに面白みを感じたから選んだ。

ただ、大学生活特になんもしてないから、とにかく自分を語れる珍しい経験がほしかったのも事実。

不思議な感覚だった。

足の膝から下のない人、バイクに乗る小学生、写真を撮ってくれた子供にお金を要求される、コショウかと思ったら大量のアリだった料理。何もかも今まで経験したことのない感情が生まれた。

このクラブチームが行っているボランティアに2回参加した。

村の子供たちに無料でサッカーボールをプレゼントするというものだ。

面接の際、「インターンだけでなく、できるならボランティアにも参加したい」と伝えていたからだろうか。

そして、子供たちと時間を忘れるほどひたすらサッカーをした。

何度も何度もボールを蹴り合う。

お互い砂だらけになるまで何度も何度も…。

子どもたちは英語が通じるほど満足のいく教育環境で育っているわけではない。

でも、サッカーはボールがあれば、誰もを笑顔にさせることができる。

あの透き通った瞳はいつまでたっても忘れられない。

大学4年

大学3年修了時、成績優秀者になった。

3年次終了時点で120単位以上取得かつ、GPAの上位50名の経営学部の学生。

大学に入って密かに唯一の目標として掲げた成績優秀者。

親孝行とは言わない。ただ、両親のため、授業料の免除のためにも頑張った。

あの精神状態でよくやったと思う。

ただ、これとは別に学部ごとに数名しか選ばれない1年間のGPAが上位の成績優秀者というものが法政にはある。そっちだと授業料の免除があるらしい。

たった1年、取得単位数は関係なく、楽な授業をとるだけでも上位者になれる。

一方、3年間の努力に対して与えられた大学からのご褒美は図書カードのみ。

もっと勉強しろ

という大学からの皮肉な愛のムチである。

大学4年は休学して留学しようとした。

失った時間を取り戻したかったのかもしれない。

一度自分の人生を立ち止まりたかったのかもしれない。

そしてなにより、この二つの経験から自分の興味のあることへ挑戦したかった。それが留学。

ビザもとった。チケットも買った。あとは飛ぶだけ…。

コロナの大流行が始まった。

あと2日でロックダウンを開始することが発表された。留学を諦めた。

新卒一括採用が未だに定番の日本で生きていくなら休学留学を諦め、急遽就活にシフトしなければならなかった。

めちゃくちゃ葛藤したし、悩んだが、コロナの状況が来年には変わるだろう、将来は柔軟な考え方を持った企業に就職しよう、そしてやりたいことに挑戦しよう。

自分が活き活きしている時は何かに挑戦している時なのだから。

そう思い、既卒留学を決断した。

ゼミはやめた。

確かにゼミでの1年は自分をさらに成長させた。教授をはじめ、ゼミ生にも感謝している。あの二人の協力があって論文で賞をもらえた。

ただ、正直居心地の良い環境ではなかったし、次なる挑戦に必要な時間だとは思えなかった。

具体的な経験は言及しないが、彼らもまた日本の教育・社会制度が生みだしてしまう被害者の一つでもあると言えばよいだろうか。

コロナ渦の既卒留学になることを想定し、今すべきことを逆算して行動した。

春学期は思うように動けないだろうと考え、春学期中に卒業単位を取得した。

秋学期は授業を取らず、英語の勉強と留学資金稼ぎ。リモートでインターンしながらマックでバイト。マックをいったん休み、インターン+白馬のホテルでリゾートバイト。

出発前日Go toの停止。

到着1週間で緊急事態宣言。

オーマイガー。ただ、

全てが計画通りにいかないのが人生。

でも、思いがけない出会いがあるのもまた人生。

ここなら海外経験ある人が集まるだろう。そしてこの大変な時期ならとても変わった人たちに出会えるだろう。それで選んだのが白馬でのリゾートバイトだ。

海外勤務経験もありながら、白馬が好きで住み続けるそのホテルの厨房担当かつスキーグッズを個人で販売する社員。

妻と子供を残し、数年間自分で作った山小屋に住み続けた社員。

フィリピン勤務経験あり、スノボーを滑ってる途中9万円のGoProをなくし、1週間後、探すために買った2万円の金属探知機でGoProを見つけるという伝説を残した社員。

1年のカナダ留学中、後半の半年は10~20万ほどのボロボロ車に車中泊をし続けた、ボルダリングうますぎちゃんの女性スタッフ。

白馬が気に入り、白馬から帰った翌日、高卒で働き始めた工場を辞め、ひたすら様々な山でスノボーを滑り続ける193cmの面白派遣社員。

山が大好きで全国の山々を周り、ボルダリングや登山を続ける派遣社員。

専門学校卒業後、働いてからオーストラリアに留学し、コロナでなかったらカナダに行こうと準備していた、今はなんか山好きになった女性派遣社員。

そしてバツイチ、30歳で留学に挑戦するため仕事をやめ、オーストラリアに行こうとした矢先、コロナで行けず、様々な派遣で食いつなぎ、パンデミックが最も最悪だった時期にイギリスに留学しに行った、毎日スノボーを滑り、パウダーもアクセル全開で滑るメンタル最強派遣社員。

他にも本当にお世話になった人はたくさんいる。

ここで出会えた人は誰もが自分の好きなことを続けているからこそ活き活きしていた。

誰もが僕の年上。ユニークな人生経験ばかりを持つ人々に囲まれ、新たな挑戦や、好きを極めたり、居心地の良い暮らしを求めたり。

もっと自由な生き方をしていいんだな。

決して大学では味わえない経験ができた。

2021

新年早々、契約満了1か月前にコロナによる業績悪化で解雇。

最高のスタートを切った。

地元に戻り、インターン+マック+コストコでバイト。そして、コストコに代わりAmazon倉庫でバイト。

貯金120万は越えた。

こうして日本での大学生活は終わりを迎えた。

そうして今、新たな挑戦の場としてサンフランシスコにいる。

そして

「個性を最大限活かせる社会を」

これが、今兄と始める新たな挑戦。

それらについてはまた今度にしようか。

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